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十勝毎日新聞社ニュース

集団自決・麻山事件を語る

2012年08月11日 14時53分

 終戦間近の1945年8月12日、旧満州国(現中国)の麻山地区で日本人開拓団の集団自決事件があった。現場で家族5人を失った女性と、翌日足を踏み入れた元日本軍兵士の男性が十勝にいる。ともに広尾出身の鈴木幸子さん(75)=音更=と里瀬勝さん(88)=広尾=。中国残留やシベリア抑留の過酷な体験をくぐり抜けた2人は、決して薄れることのない記憶とともに今年も67回目の「あの日」を迎える。今年は日中国交正常化40周年−。

自宅の数百冊の蔵書の大半は戦史関係。「麻山の光景はまぶたに焼き付いて離れない」と話す里瀬さん

◇遺体の山
 「こんなことになって、誰が責任を取るんだ」−。421人の遺体を前に、里瀬勝さん(当時21)は思わず叫んだ。

 関東軍兵士だった里瀬さんはその日、12人の部下を率いて敗走中だった。夜明けの麻山中腹に、日本のある東の方角に頭を向けて倒れた哈達河開拓団の無残な姿があった。女性と子供の遺体ばかりだった。

 「死に切れなかった赤ん坊の泣き声や助けを呼ぶ老女の声が、遺体の山から聞こえてきた。これが地獄かと思った。でも何もできなかった。軍の命令は部隊の移動で、開拓団の救助ではなかったから」。同郷の鈴木さんが息をひそめていることを知る由もなかった。

 関東軍は当時、精鋭を南方に送られ、張り子の虎にされていた。軍は開拓団を救うことなく、ひたすら逃げた。敵兵の影におびえ、現場を立ち去った里瀬さんらはその数十分後、戦車砲の一斉砲火を浴びる。生き残ったのは里瀬さんの他、わずかに1人。2人はシベリアに抑留され、3年間過酷な生活を送った。共に戦火を生き残った部下は、凍土に息絶えた。

 軍は開拓団を見捨て、兵隊もまた見捨てられた。「弱い者ばかりひどい目に遭う。戦争はでたらめですよ」。里瀬さんは、吐き捨てるように言った。

「自決現場は今は畑。でも家族に会える気がして…」。合葬墓の写真を手に振り返る鈴木さん

◇叫びと銃声
 「私も政子も恐怖で死んだふりのまま動けず、最初はお互いのことを死んだと思っていたの」

 鈴木さんは娘一家と暮らす自宅で静かに語り始めた。6人きょうだいの鈴木さん(当時8)は、麻山事件で母親(同38)、14歳と12歳の兄2人、5歳と1歳の妹を失った。生き残った次妹の政子さん(同7)と3日後に発見され、中国人に引き取られた。

 「父さん、助けて。連れて行って」。「だめだ」。父親らしき男の声とともに銃声が響いた。現場に居合わせたからこそ証言できる「自決」という名の“殺人”。「今も耳から離れない」。広尾に戻った後も、日高の山並みに沈む夕日を見てはソ連との国境沿いの山で赤く光った手投げ弾を思い出した。

 2人は引き受け先で育てられ、3年後の48年に父の高橋秀雄さんと奇跡的に再会。鈴木さんは紡績工場で働いて一家を支え、53年に再開した復員船で日本へ。先祖がいた福島に立ち寄ってところてんを食べ、帰国を実感した。

 今月15〜21日に中国を訪れる。昭和史をテーマにしたテレビ番組で現地取材を受けるためだ。80年代からたびたび遺骨拾いや調査団に同行して訪中したが、今回はくしくもお盆の時期。「庭で育てている菊を手向けるのには間に合わないのが残念。でも、自分を呼んでくれたように感じる」と話した。

麻山(まさん)事件
 第2次世界大戦末期、旧満州国境を侵攻してきた旧ソ連軍に追い詰められた哈達河(ハタホ)開拓団421人が、満州国鶏寧県(現中国黒竜江省鶏西市)麻山で集団自決した事件。当時開拓団の壮年男子は徴兵され、団に残ったわずかな老人や少年が女性や子供を「介錯」、その後玉砕したという。鈴木さんのいた同開拓団と里瀬さんの部隊は内陸に避難中だった。このソ連侵攻で、満州全体では27万人いた日本人開拓団のうち、約8万人が死亡したとされる。

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