十勝毎日新聞社ニュース
私の歩んだ道 帯広市長選 上野敏郎氏

「市議としての活動をまちづくりに反映したい」と語る上野敏郎氏
1票の重みを胸に市議23年
劇的勝利で初陣 政治家の道歩む
「1票差の勝利が政治のスタートだった」
1987年4月の帯広市議選。上野敏郎氏の政治家人生は、わずか1票差の劇的勝利で幕を開けた。本州からの「Iターン組」。仕事や青年会議所の活動で積み上げた人脈を生かしての初陣だったが、「地盤もなく選挙のやり方もわからなかった」と振り返る。
次点はトップ当選と目された現職の岡田肇氏。91年に返り咲いた岡田氏は過去の因縁には触れず、先輩として、上野氏と親身に接した。その岡田氏は昨年12月に死去。市議会議長として弔辞を読み、「運命的なものを感じた」という。1票の重みを知った87年の選挙が、その後の活動の原点になった。
実家は庄内平野が広がる山形県斎(いつき)村の稲作農家。「5人きょうだいの三男坊。真面目な兄2人とは対照的だった」と笑う。
小中学校では児童会長、生徒会長を務めた。教育に熱心な両親の薦めで東洋大に進学。小児医療の充実を求めるボランティア運動に携わった。そこで出会ったのが、帯広出身で、後に結婚する裕子さん(61)だった。
保険会社で営業 帯広での第一歩
大学卒業後は福祉施設で働くつもりだったが、没頭しすぎる性格を心配した友人が会社勤めを進言。裕子さんの紹介で、富士火災海上保険帯広支社に就職した。70年9月、23歳で帯広の第一歩を踏み出した。
下宿暮らしをしながら、人脈もない見知らぬ土地での営業活動。事務員を参考にオートバイの強制保険に着目し地道に顧客を増やした。単身生活の支えはやはり裕子さん。当時、飛行機の客室乗務員として活躍していたが、手紙のやり取りで将来の夫を励ました。2人は71年に結婚、これを機に本籍地を帯広に移し、「帯広に骨を埋める覚悟ができた」と語る。
保育所建設要望活動に関わり、「議会で自分の考えを伝えたい」と市議選出馬を固める。会社から独立し事務所を設立したときは妻に事後報告、政治家への転身も即断即決だった。
市議時代は市政の検証ではなく、提言型の活動に力点を置いた。自身の思いや活動を発信する「鳥の目虫の目レポート」は、初出馬のときから続け、通算194号に達した。87年1月の創刊号には「十勝圏の再発見活動を」と書いた。自ら「十勝圏会議員」を名乗り、隣接町の議員らと交流を深めた。
自他ともに認める凝り性で研究熱心。大衆文化から帯広・十勝を知りたいと、管内の銭湯、廃校、映画の舞台を調べ尽くした。事務所内には、まちづくりをはじめ資料が並ぶ。「十勝出身でないから見えることもある。その意味では積極的なまちづくりができる」と自負する。
初陣を飾って以後は、地道に支持基盤を確立し、6期連続で当選を果たす。「叩かれても、堂々巡りをしても少しずつ上に歩く“らせん状理論”の性格」というように、一歩ずつ階段を上った。2007年には3度目の正直で、念願の議長にも就任した。
市長選に臨むに当たって、思い入れのある議長職を投げ打つことになり、相当迷った。覚悟を決めたのは、管内町村長・議長から聞かされてきた帯広への期待、そして自身が抱き続けてきた「十勝は一つ」を具現化するまちづくりへの思いからだ。オール十勝を掲げる20年来の考え、理念を訴えるのに、市長選は格好の舞台だった。
キャッチフレーズは「時代は即戦力」。23年間の議員としての実績を前面に打ち出し、第二の故郷への思いをぶつける構えだ。
実績や理念訴え集大成目指す
「市議選では毎回、市民から(議員としての)評価・通信簿をもらうような思いだった。市長選は23年間の市議・議長としての実績に対し『総合評価』をもらうような気持ちで臨みたい」
政治家人生の“集大成”を強調、静かに闘志を燃やしている。
(原山知寿子)
うえの・としろう 1947年山形県斎村(現・鶴岡市)出身。東洋大文学部卒。70年富士火災海上保険帯広支社に入社、86年に上野敏郎保険事務所設立。87年から市議選で連続6期当選、建設委員長、議会運営委員長などを歴任、2007年から議長。市長選出馬に伴い12日に議員辞職。62歳。
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