HOME 十勝毎日新聞社ニュース 「中川昭一」を語る 十勝連合後援会 高橋猛文幹事長
   |  twitter |

十勝毎日新聞社ニュース

「中川昭一」を語る 十勝連合後援会 高橋猛文幹事長

2009年10月15日 13時33分

 中川昭一元財務・金融相の死去から10日が経過した。16日には帯広市内の北海道ホテルで「哀惜の会」が開かれる。主催団体の一つ十勝連合後援会の高橋猛文幹事長(59)は約20年間後援会幹部を務め、中川氏が最も信頼を寄せたブレーンであり盟友だった。高橋氏に政治家・中川昭一とその素顔、後援会の今後などを聞いた。
(安田義教)

中川氏の政治人生を語る高橋猛文氏(金野和彦撮影)

壮絶な人生 駆け抜けた
「腹を固め、11月にはアクション起こしていたはず」

 −幹事長として約20年間、中川氏を支えてきた。
 (私は)地元のアンテナのような存在。極端なことを言えば、分身のように思われたかもしれない。一心同体を私に求めたのでしょう。この20年間、普通ならできないことを経験させてもらった。壮絶な人生を生きた男だと思う。父親を早くに亡くしたこともある。全速力で人生を駆け抜けた。

 −落選後の中川氏の動向については。
 東京の公益団体の会長に就くことが決まり、13日から出社するはずだった。その後は今月下旬まで、吉村作治さんの招きで郁子夫人とエジプトに行く予定で、その間に気持ちを整理し、どういうふうに進むのか、はっきりさせるつもりだったのではないか。「女房につらい選挙をさせた。次もたぶん応援してくれると思う」と話していた。月内には腹を固めて、11月になれば当然、アクションを起こしていたはずだ。

 −まさしく突然の訃報だった。
 9月27日に帯広で一緒にそばを食べた。その日の夕方に東京に戻ったので顔を見たのはそれが最後。(十勝毎日新聞社90周年式典に出席予定だった)10月2日に「(調子が悪くて)行けない」と電話があった。4日朝、携帯電話に奥さんから不在着信があり、おかしいと思いかけ直したら「うつぶせになり動かない。冷たくなっている」と。9月25日の健康診断では健康だったと聞いていたのだが…。「どうしたんだ」という気持ちだった。
 本人がいなくなった感覚がまだない。16日(哀惜の会)も、準備をしていると政経セミナーやイベントのような感覚。彼とは1日おきに電話していた。今でも電話がかかってきそうな気がする。

 −東京での葬儀には大勢の人が詰めかけた。
 出棺のときは中川のファンなのか、大勢の人が参道で写真を掲げたりして泣いていた。永田町や霞が関では(霊きゅう車を)出迎えた役所の人の多さ、涙を流す人の多さにびっくりした。麻生(太郎=前首相)さん、安倍(晋三=元首相)さん、谷垣(禎一=自民党総裁)さんが一緒になって葬儀の相談をしていた。改めてすごい人だったのだと感じた。

 −後援会の今後と後継者選びは。
 後援会は四十九日までは喪に服す。その後、どうするのかまた協議したい。政治活動はなくなるが、残った事務処理などで組織は、何らかの形で残す必要はある。膨大な資料や記念品の整理にもしばらく時間を要するだろう。後継者は現時点ではまったく分からない。亡くなってから1週間、奥さんなど家族と一緒にいたが、葬式の話ばかりで後継の話は一切していない。

8月の衆院選で街頭演説を行った中川昭一氏、郁子夫人、高橋猛文氏(左から。8月29日、帯広市内の藤丸前)

利権嫌ったプロの政治家
「体すり減らし、全力で十勝のため頑張った」

 −中川氏との出会いは。
 初出馬を決めた1983年2月、私が所有する帯広のマンションに入居し、ご縁ができた。その後、(中川)一郎時代からの支援者だった小野東機男さんらが「同世代で支える会をつくってほしい」と呼び掛け、できたのが「旗幟(きし)の会」。その会長をした。
 幹事長職は帯広JC(青年会議所)の理事長時代から頼まれたが断っていた。ただ3回目は断れず、帯広連合後援会の幹事長を引き受けた(90年10月)。それから20年の付き合いになる。私が体を壊した11年前、一度は退任届を出したが、総会の席で中川が「国会議員を続ける間は高橋さんに幹事長を続けてほしい」と言ったらしい。

 −政治家・中川昭一をどう評価しているのか。
 本当のプロの政治家だった。地域のためを考え、利権は嫌った。物事に対してはすべて万全を期して臨む。役職に就いているときは緊張感で常にぴりぴりしていた。ある官僚は「こんなに交渉にたけた人はいない」と言っていた。国際交渉では、ありとあらゆる資料・データを読み込み、相手の人柄や趣味までも調べ、じりじりと追い詰めていった。交渉後はヘトヘトになっていた。
 「僕は毎日毎日いつでも真剣で戦場に向かう気概でいる。(死んだ)そのときは骨を拾ってください」とよく言っていた。テロなども意識し、政治家として命をいつ落とすか分からないと絶えず覚悟していた。家族にも同じことを言っていたようだ。しかし、本当に(骨を)拾うことになるとは…。涙が止まらなかった。

 −議員生活の後半は主要閣僚、党幹部を連続して務めた。
 財務大臣と金融担当大臣の兼務では「(リーマンショック直後の)今の時期に2つはつらい」「このままでは死んでしまう」と漏らしていた。でも(当時の総理の)麻生太郎さんには総裁選でアドバイスしたし、(断っては)悪いと引き受けた。

  −中川氏の人柄は。
 とても勉強する人。読書家でメモ魔。地元からの陳情では、十勝を真剣に思うがゆえに質問攻めにした。「分かった」と気軽に言えず、それが誤解を生んだ。地元に戻ると身構えていた。とても繊細。激しい言動との間で、悩んでいたこともあった。真面目すぎた。
 常に十勝のことを気にしていた。地元のことを何もしないと言われるが、それは違う。体をすり減らし、全力で十勝のために頑張った。(後援会幹部として)それを皆さんに伝えられず、申し訳なく思っている。

 −飲酒にまつわる指摘が多かったが。
 確かに酒は好きだったが弱かった。(一部でうわさされた)アルコール中毒などではない。ローマの一件(もうろう会見)では、(会見前に)酒を飲む時間はなかった。極度の疲労や、風邪薬を時間をおかずに2回飲んだことなどが原因。酒と関連づけられたのは悔しい。あの会見も全体の18分間を流してくれれば…、数字の質問にもきちんと答えていた。「あの場面」だけが編集され、繰り返し流されてしまった。

 −8月の衆院選を振り返ると。
 最後まで政策、自分の流儀で戦いたいと言っていた。「にこやかに」との助言もあり、本人も悩みながら運動していた。最後の2日間は「お願いします」と頭を下げていたが。有権者が民主党を選んだという結果は受け止めるしかない。自民党への逆風に加えローマでの一件があったので、本人はもっと票差が開くと思っていたようだ。9万の得票にとても感謝していた。
 どういう形で再起し、十勝に恩返しするのかは聞いていなかったが、30、40代の若手の団体など幅広い層と会っていた。時間が十分にあるので、自分が思う十勝と、皆が思う十勝を勉強したいと言っていた。

 −16日の「哀惜の会」に向けては。
 彼に対し「ありがとう」という気持ちで来ていただけると、非常にうれしい。

※高橋猛文幹事長の高の字は異体字です。

6~12時 12~18時
13日の十勝の天気
最高気温
-2℃
最低気温
-15℃

十勝毎日新聞に掲載された全19市町村の話題や
お知らせなどを、地域の皆様や十勝を離れて暮らす方々にふるさと情報としてお伝えします。

無料メール配信中     登録数6000 件突破

今、なぜ「かちまい」…
ご購読のお申し込み