勝毎ジャーナル
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故 郷

択捉島から札幌に進学
鈴木健二郎さん

戦争がなかったらどんな人生に?
自分にとってかけがえのない場所

一九四四年暮れ。択捉(えとろふ)島から進学のために札幌に出ていた鈴木健二郎さんは不安にかられていた。定期的に届いていた両親と姉からの手紙がプッツリと途絶えたからだ。家族とは既に三年も会っていない。札幌では自分と年齢がそれほど変わらない若い人たちまでが次々と徴兵され、街からどんどん人がいなくなっていた。戦争は消耗戦となり、十八歳だった鈴木さんもそんな情勢を肌で感じていた。「みんな無事なのか」。確かめるすべはなかった。

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両親と姉が択捉島から引き揚げの際に持ち帰った夏目漱石全集。「読むことはないが捨てるに捨てられないんです」(写真・折原徹也)

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択捉島中部にある別飛(べっとぶ)。郵便局員の父に母、二歳上の姉とともに過ごした村だ。人口二百五十人の小さな漁村で、大漁ともなると多くの働き手が集まった。よく覚えているのは、気のいい母が近所の人たちを食事に招いていたことと、短い夏に海水浴を楽しんだこと。
進学は札幌に住む知り合いに誘われたのがきっかけだった。択捉島に中学校がなかったこともあり、家族は賛成してくれた。三九年に小学校を卒業したが、同級生七人のうち進学したのは鈴木さん一人だった。
家族の消息が分からなくなって十カ月後の四五年八月。徴集され訓練を受けていた金沢で戦争終結を知る。「家に帰れる。家族に会える」。一瞬宿った希望だったが、旧ソ連軍が択捉島に進駐したことで打ち砕かれた。択捉島に関する情報は一切ない。「生きているのか死んでいるのかも分からないなんて」。これほどつらいことはなかった。

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一通の通知書が届いたのはそれから二年後だった。家族が無事、引き揚げてくるという短い知らせだった。「感激して通知書を持つ手が震えた」という。十月に家族を乗せた船が函館港に到着し、六年ぶりに再会した。父親は年を取ったように見えた。「相当苦労したんだ」。名を呼び合いながら、皆で大泣きした。
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家族は戦後、抑留生活を強いられていた。時計や万年筆など金品をすべて奪われ、比較的広かった自宅はソ連軍の宿舎として使われていた。すべて姉から聞いた話だ。父や母は抑留のことはほとんど口にしなかった。「触れられたくないことだったのだろう」と思う。
生まれ故郷へ行くのが夢だった。実現したのは九五年。戦争が終わって五十年がたっていた。墓参が目的の短い“夢”ではあったが。降り立った故郷の山や海は何の変わりもなかった。しかし、当時の建物やあったはずの親類の墓は跡形もなく、「自分の存在を確認できるものがなくて、寂しい思いだった」。長すぎた月日の経過を悔やんだ。
札幌に進学したころは将来「先生」になって故郷の学校に勤めるつもりでいた。戦争や抑留がなかったら自分の人生はどうなっていたのだろう? 「変わらないのは故郷は自分にとってかけがえのない場所だということ。みなそうですよね」。墓参で持ち帰った択捉の砂を見つめながら、そうつぶやいた。
(猫島一人)(00.7.14)

<プロフィル>
一九二六年択捉島留別村に生まれる。三九年地元の小学校卒業後、進学のため札幌へ。四五年に札幌の中学校卒業、その後石川県で終戦を迎える。四七年に離れ離れになっていた両親と姉に再会する。四七年帯広営林局勤務。七五年から八七年まで帯広市議会議員。現在、千島歯舞諸島居住者連盟十勝支部長。


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