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勝毎ジャーナル | KACHIMAI |
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失望と怒り 拓殖実習場第一期生として町拓北に入植した服部正司さん(93)が、念願の乳牛一頭を購入したのは一九三七年ごろ。当時、雪印の前身「北海道製酪販売組合連合会(酪連)」の創業者・黒沢酉蔵会長やその仲間の酪農義塾(札幌)の先生たちは何度も大樹村に来た。「何も分からない私たちに牛を飼う技術を教えてくれた。『牛を飼うことこそ農家の生きる道』といつも言っていた」
「産乳六千石を超えたら集乳所を中間工場に」という黒沢会長の約束を励みに、町の産乳は三八年の約千五百石から五年後に六千石を突破。終戦後の四七年、濃縮乳などを作る雪印乳業大樹工場が市街地に完成した。「農家は皆手伝いだ。井戸なんてなんぼ掘ったか分からん」と角倉さんは当時の協力態勢を語る。 五五年には町が酪農振興法の「高度集約酪農地域」の認可を受け、雪印が中心工場に指定され、五七年にチーズを作る新工場が現在地にオープン。町を挙げて完成を祝った。当時、乳業メーカー間の牛乳争奪戦が過熱したが、「大樹町だけは全町一丸になって雪印一本で出荷を続けた」と大樹町農業史は記している。
角倉さんはこのほど開かれた自らの名誉組合員章受章祝賀会でこう話した。「いまだに一番気にしていることは百二、三十人を離農させたことです」。工場発展の陰で酪農を離れていった人は多い。「われわれは『会社は完ぺき。農家の乳さえ良くなれば』と頑張ってきた。だからこそ今回の事態への反響は大きい」 服部さんのもとには今回の事件後、七十年前に志高く出発した故郷・新潟の知人から手紙が来た。中には事件に触れ、「お前の牛の乳らしいね」と記されていた。 「悔しいです。なんでこんな汚点を残したのか」。共に歩んだ農民たちの声は雪印にどう届くのか。(小林祐己)(00.9.2)
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