| 境界の風景[6] 第1部「心の病をめぐる日常」 |
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日本の精神医療の歴史は、長期入院している人たちをどうやって退院させるかということだった」 管内で長期入院する精神病患者を何とか社会復帰させようと奔走してきた一人、帯広ケアセンター所長の門屋充郎さんはつぶやく。ケースワーカーとして管内の病院に働き始めたのは1967年のことだった。 この3年前、64年3月24日火曜日。日本の精神医療の歴史に大きな影響を与える事件が起きた。東京・虎ノ門の大使館前で、精神分裂病の青年が、ライシャワー・アメリカ大使の太ももを短刀で刺した。 「マスコミも一貫して精神病患者を危険な存在として報道し始めた。犯罪が起こると、病気とは関係のない問題であっても、精神病院の通院歴があれば必ず報道するようになった」(門屋さん)。
医師などの数を一般病院の3分の1でよいとする精神科の医療法特例なども定められ、このころから管内でも精神病院が一挙に増え出した。道立緑ケ丘病院は53年から既に開院していたが、65年に柏林台病院と帯広厚生病院精神科、66年に帯広協会病院精神科、69年に大江病院が開設。74年には国立十勝療養所が結核病棟から精神科に転換した。 当時は高度経済成長期。社会全体が効率と利益を第一に求める中で、“無駄な存在”の精神病患者たちはどんどん病院に収容されていった。 日本の戦後の精神医療の歩みについて、音更リハビリテーションセンターの東端憲仁所長はこう語る。 「ライシャワー事件で精神障害が問題視されたんです。その後、保健所が精神障害を扱う窓口になり、市町村は扱わないことになった。そうすると、街の人が障害者に接する機会がない。国がとにかく精神病院を建てやすくし、施設収容が進み、われわれの目の前から精神障害者が姿を消していった…」 その後、実社会で精神病患者の姿が健常者の目に触れるのは、活字や映像を通して犯罪を犯したときに限られてきたのではないだろうか。(後藤一也)
大江病院の坂井院長は健常者が持つ精神病患者への偏見についてこう語る。 「マスコミの影響が大きいと思う。犯罪者に通院歴があると、必ず新聞に出る。それがピックアップされた情報として万人に伝わるとしたら、そういうイメージを持ってもおかしくない。昔は地域の中で生活していた人々が、病院の中で隔離されてしまった。実感として感じられるものがなかったら、自分の目にする情報から判断するしかなくなっている。犯罪ばかりがピックアップされて、本当は慎ましく生活しているという、広いすそ野が見えてこない」
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