◇十勝馬唄“全国区”に成長◇
多くの名手十勝で活躍
◆「十勝小唄」が源流
ランランラントセ カネガフル トカチノヘイヤニ カネガフル
狩勝峠で東を見れば 雲か海かや只芒々 十勝平野は涯てしも知れず あれサ日本一 豆の国…
林豊洲の作詞、小松教祐の作曲で「十勝小唄」が作られたのは一九二七年。豆景気に沸く十勝の様子が生き生きと伝わる歌として歌い継がれ、しっかりと根づいている。北海道民謡連盟最高師範の九本栄一(68)は「風土と習慣を盛り込むのが民謡であり、『十勝小唄』はその源流」と指摘する。

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昭和40年代前半ごろ。小室キミ(錦玉)の「むつみ会」総会で。前列左から松井静雄、1人置いて阿部湧道、1人置いて九本栄一、小室錦玉、萩原信一、大井キミ、番屋トミ
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「十勝小唄」をはじめ、十勝の歌は二十五曲ほどある。ほとんどは昭和四十年代から作られ、九本も「どさんこ甚句」「どさんこ舟唄」などを作った。その中でも、「日本の民謡として格調高く成長してきている」(九本)のは、「十勝馬唄」(大野恵造作詞、堀井小二朗作曲)だ。
霞む野っぱらハアー とねっこ跳ねて
馬の十勝にヨ 春が来る…
「十勝馬唄」が作られたのは一九六六年。「前年の十勝民謡同好連盟の総会で『十勝開拓の歌を作ろう』と決め、当時の萩原信一会長の努力、帯広市の吉村博市長、木呂子敏彦助役、田代廣和さんの協力で実現し、『どんころ節』とともに作られた」と、九本は振り返る。
◆「馬唄」が普及に尽力
九本をはじめ歌唱指導者たちも「十勝馬唄」の普及に力を注いだ。翌六七年七月、九本は譜面を持って夕張、旭川、札幌、室蘭、釧路と歩いて全道に紹介、八月には帯広市中央公園を会場に三日間にわたって発表会が開かれた。七〇年から全道民謡大会で歌われ始め、二年後の七二年、北海道民謡の部で「十勝馬唄」を歌った馬場敏彦が優勝。「十勝馬唄」が実質的に北海道民謡として位置づけられた瞬間だった。
その後、八一年に正調「十勝馬唄」保存振興会、八二年に歌碑の建立、八五年に技能委員会が設けられ、九本が宗範となった。全国大会の開催のほか、九五年には資格試験制度を導入し、講習会や研修会を実施、全道に二十六支部ができている。また、今年から全国民謡大会サミットに加わるなど、「十勝馬唄」はまさに“全国区”の民謡として成長を続けている。
帯広の民謡会は、大正末ごろに帯広追分同好会が作られ、昭和に入って帯広追分研究会、千鳥会、かもめ会などができた。五九年には十勝民謡同好連盟が誕生。発起人代表は萩原信一、初代会長は宮坂寿美雄だった。その後、七一年二月に十勝地区民謡連合会(初代会長・萩原信一)が設立され現在に至る。
この間、「根っからの歌好きで、歌は天下一品。芸に一生をかけた」(九本)という小室キミ(錦玉)、小室とペアで活躍した十勝尺八の元祖金子喜三郎、尺八の阿部湧道、三味線の泉田紅梅、加藤博、民謡を五線譜に譜面化した二代目錦玉の下村錦玉ほか、出口タケ、内沢秀雄、山田清次郎、上久保利夫、番屋トミ、大井キエ、昭和二十年代にプロとして活躍した渡部久治ら、十勝の民謡の名手は枚挙にいとまがない。
◆浪曲から民謡へ
民謡ブームが訪れる前、大衆芸能といえば義太夫や浪曲だった。帯広では三二年、荘田清一(潮田左近)が小藤田清(潮田左近丸)らと帯広浪曲学校を開設し、人気を博した。「民謡の人たちも大抵は浪曲をやっていて、芸風や舞台マナーを学んだ」(九本)という。
九本も十九歳で帯広浪曲学校に入門したのが、芸能の道に入るきっかけだった。昭和四十年代後半になると民謡ブームが訪れ、「気軽に自分の声ひとつでできる健全な趣味として人気が高まった」。同五十年代半ばには十勝地区民謡連合会の会員も千四百人ほどに膨れ上がっていた。
しかし、その後のカラオケブーム、さらにダンスや民俗舞踊、ゲートボールやパークゴルフ、ミニバレーといった軽スポーツに民謡人口が流れ、現在では約六百人まで減少している。
「会員が減ったといっても、地域ではグループ活動が行われている。民謡を歌うのは腹筋運動をするので体にもいい。人との交流にも役立つんです」。九本は悲観はしていない。
(文中敬称略) (十勝20世紀取材班=成田融)(00.10.7)
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