「十勝監獄」

◇“未開の地”発達の基盤築く◇

内陸開発拠点に

◆泥まみれの「赤ん坊」
 「真っ赤なももひきと上着に身を包んだ『赤ん坊』と呼ばれた囚人が、来る日も来る日も泥にまみれ、荒れ地にくわをおろし、材を切り出した。彼らには夏も冬もない。本州から来た囚人には十勝の厳寒がそりゃ、きつかっただろうねえ」
 帯広刑務所の元刑務官で十勝監獄史を調べている阿部富喜男(75)は監獄内の様子を静かに語る。「彼らが血と汗を流し、開拓の礎を築いた歴史をわれわれは忘れてはならない」
 十勝監獄建設案が浮上したのは今から約百二十年前の一八七八年(明治十一年)。「政府は建設に前向きで、二度にわたって十勝川沿岸を調査。しかし当時の十勝は道がない、沿海は遠浅で船が近づきにくい−など地理的な障害が多かった。晩成社ともども二の足を踏むほどで、十勝がいかに未開だったかを示している」と阿部。
 一八九一年当時、道内の四集治監にいた服役囚は約七千人。各地で囚人が充満し始め、十勝国での監獄建設はいよいよ避けられなくなった。政府は北海道集治監典獄であった大井上輝前に監獄候補地決定の厳命を与え、大井上は下帯広に場所を決めた。十勝が候補地に浮上してから十三年後のことであった。

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1902年(明治35年)ごろの十勝監獄。十時型に設置された房には本州からきた囚人が入監、その多くが無期刑などの重罪犯だった(帯広百年記念館所蔵)

◆1895年に完成
 建設に当たったのは無論、囚人。一八九三年、釧路分監の服役囚千二百人が仮監獄「帯広外役所」を建設。「重罪犯ばかり五十−六十人が、七十キロ離れた糠平の密林深く入り込み、切り出した材を音更川から十勝川の合流点まで流送、市内につくった木軌道で分監用地まで運んだ。現在の十勝林業の先駆けだった」(阿部)。
 一八九五年(明治二十八年)、「北海道集治監十勝分監(一九〇三年に十勝監獄と改称)」が完成。帯広駅周辺以南から東は札内川のふもと、西は芽室町北伏古まで広がる総面責千七百平方メートルの大監獄だった。「農業監獄」と言われたように労役は開拓が主。二年間で数百ヘクタールを開墾。農業王国・十勝の根幹を形成した。
 一方、重罪犯などの長期囚が多かったため、熟練した技術を要する室内作業も発達。たらい、陶器、履物など数十種類。分監周辺には監獄製品を扱う御用商人が軒を並べた。林長次郎(十勝毎日新聞社初代社長・林豊州の父)もその一人。林は十勝石を囚人たちに加工させ、ボタンなどの特産品として販売した。
 十勝−大津間の道路、郵便局、帯広小学校、十勝公会堂など、十勝監獄建設を契機に帯広の街は一挙に活況を呈していく。「農業、林業、街区整備。帯広発達の基盤が囚人によって形成されたと言っても過言ではない」(同)。

◆火災を機に縮小へ
 十勝監獄はその後、一九二二年の火災を機に縮小の道をたどる。戦後はこの流れが加速、住宅街や街区の整備が“南進”し、千七百ヘクタールを誇る巨大監獄が邪魔な存在になってきたのだ。数度の用地転用を経て、七六年には現在の市内別府町に移転、静かにその幕を閉じた。
 市民憩いの場として親しまれている緑ケ丘公園からは、かつてここに監獄が存在していた歴史は想像しにくい。現在は石油庫や碑がひっそりとたたずむのみ。その碑にはこう刻まれている。「明治二十八年、北海道集治監十勝分監開庁。十勝内陸開発の拠点となる」
 (十勝二十世紀取材班=金澤航)  (文中敬称略)(00.12.20)

◆  ◆  ◆

<メモ>
 十勝監獄建設の経緯は、明治維新以降の混迷した国内情勢と密接に関係する。当時は西南戦争(1877年)を筆頭に不平士族の反乱や農民一揆、自由民権運動などが相次ぎ、政府はこれを厳しく弾圧、全国の監獄で囚人が爆発的に増加した。政府が全国の重刑囚を北海道に送り込み、開拓に従事させることを決定したのには、治安を損なう不穏分子を内地から隔離するねらいと、広大な土地を安い労働力でという計算が働いたためとみられている。そうした流れの中、十勝が候補地の一つとして浮上した。




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