勝毎ジャーナル
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スーパー

互いに切磋琢磨し発展
株式会社のダイイチ商店から福原、いちまる

「昔はね、リヤカーで店の魚を売っていると、近所の奥さんに“魚をさばいていってよ、ともちゃん”てよく声をかけられたものだよ」。道内トップクラスの優良スーパー、福原の社長、福原朋治(64)は創業以前の商店時代を懐かしく思い出す。

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帯広フードセンター創立時の事業計画書を開く川上直平さん

◆道内初のセルフ式
十勝にスーパーという、新しい形態が入ってきたのは、一九五八年(昭和三十三年)、ダイイチの前身「帯広フードセンター」がはじまりだった。
道内第一号となったセルフ式スーパー「帯広フードセンター」は、商店が前身の福原や、いちまるとは異なる出発。五六年(昭和三十一年)、東京で開業したセルフ式の紀伊国屋に刺激を受けた若手経済人が集まり、株式会社(資本金千五百万円)からスタート。現ダイイチ壱号店の西一南一〇にオープンした。
初代社長は設立発起人の若園栄。今でもダイイチ本社資料室に残る、ガリ版刷りの事業計画書には、出資した三十人の名前が刻まれている。その最後に記されていたのが現会長の川上直平(79)。
当時、医者だった川上は帯広中(現帯柏葉高)時代の親友だった若園に誘われて出資。そのころは、まさか自分がスーパーの経営に携わるとは思ってもみなかったという。しかし、六〇年(昭和三十五年)、若園が四十歳の若さで心筋梗塞(こうそく)に倒れた後、転機が訪れる。
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福原の「フクハラ鹿追店」(1970年ごろ、鹿追町新町)

二代目には寺西鉱一(現大丸薬局社長)が就いたが、労組運動の盛り上がりに押され辞任。後継役員の選考役だった川上が社長に就任した。「素人だったからこそ守りに徹し、幹部社員が育った。モットーは“医商同源”。治療と同じように悪いところは早めに治療した手法がよかったのでしょう」(川上)。

◆地方でも新形態
「帯広フードセンター」に次いで、六〇年(昭和三十五年)、福原商店が鹿追町の既存店舗を改造し、セルフ方式の「屈足フードセンター」を開店させた。現会長の福原治平と朋治の兄弟二人三脚が始まる。
セルフ式導入後の住民の戸惑いは大きかった。しかし、専務だった朋治は「昔のようなつけはできないが、現金販売の代わりに全商品を一割引き。先進地を視察し、必ずこれからの時代はセルフと確信していた」と話す。地方にいながら、時代の流れを敏感に感じ、新しい形態を取り入れた。
六七年(昭和四十二年)には帯広初進出、翌年には経営の苦しくなった釧路のスーパーを吸収合併、管外進出を果たした。合併の目的は、同業者として共に勉強した小林徳夫、吉田一清(共に現監査役)という人材。朋治は「二人の出会いがあったから、今日の福原がある」と断言する。福原発展の理由に人材への投資と教育がある。従業員千人を超える今でも、社長自らパートの前に立ち、最善のサービスは何かを説く。
いちまるの前身、加藤商店は五五年(昭和三十年)、西五南二五に店を構えたのが始まり。先代の加藤仙之助は、六九年(昭和四十四年)にセルフ式の「一丸センター」に改装する。おなじみの一○のマークは加藤家の家紋から取った。

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加藤商店だったころのいちまる(1959年ごろ、帯広市西5南25)

◆「無我夢中で店守る」
改装した当時の仙之助は四十歳。資金繰りに悩んでいた若き経営者に、保証人として手を差し伸べたのは、宮本商産の宮本義雄(元帯広商工会議所会頭、現最高顧問)だった。妻の幸子(62)=現会長=は「仙之助さんはよく“宮本社長に足を向けて寝れない”と言ってました。それから決して迷惑をかけないようにと、店のために一生懸命働いた」と振り返る。
これを起点に市内への積極的な店舗展開が始まった。しかし、仙之助は九三年(平成五年)、突然脳梗塞で倒れる。当時、総務統括部長だった祐功(39)=現社長=は「少し前まで普通に話をしていたおやじが倒れ、二年近くの看病が続いた。その後は無我夢中で店を守ろうと働いてきた」と話す。
それぞれの歴史を歩みながら、道内有数のスーパーとして発展してきた三社。福原朋治は「ダイイチ、いちまる、フジトモ。地場の四社が互いに切磋琢磨(せっさたくま)してきたからこそ、十勝スーパーの活況がある。まさに競合は進歩の母です」と語っている。  (文中敬称略)  (十勝20世紀取材班=酒井花)(00.5.23)




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