◇植民地開放で大量移住◇
明治30年代に本格化
「開墾ノ成績モ最モ顕著ナリ、実ニ当国農民ノ骨子」。明治二十七年(一八九四年)道庁に入り全道各地を調査した河野常吉は「北海道殖民状況報文 十勝国」の中で、十勝の無願開墾(正規に土地貸し下げを出願せず、移民が未開地を開墾すること)について記述している。
◆保護、保証もなく
同報文には小作人を抱えた大農場と無願開墾との比較もあり、何の保護、保証もないのに、開拓に挑んだ無願開墾の気概を評価している。
十勝は開放直前の同二十九年、無願開墾は三百五十六戸、千三百六十四人、開墾地面積約八百ヘクタール。同二十八年末の十勝の戸数は千二百六十八戸(五千五百九人)のため、三割弱を占めていた。しかし、十勝地方史研究所の井上寿さんは「実態はこの三倍はいたはずだ」と指摘する。
十勝に無願開墾が多かったのは同二十九年まで開放が遅れたのが原因。榎本守恵・元道教育大教授は「道庁は当時胆振国、石狩国方面の土地処分に専らであり、十勝は区画以外の条件整備がおくれたからであろう。海運・道路・行政機構等の整備は開放後の三十年からであり、二十年代は準備中であった」(十勝における無願開墾の問題)と解説している。
◆岐阜から中士幌へ
同二十九年、十勝の植民地が開放されると、この地は一躍脚光を浴び、大量に移民が移住してくる。
濃美大地震、長良川の氾濫で、徹底的な打撃を受けた岐阜県武儀(むぎ)郡中有知(なかうち)村。中田宮五郎、西部喜代吉が村民を説得し、同二十九年末、北海道移住に立ち上がった。十勝が適地との情報を得て同三十−三十四年の間に武儀団体二十七戸が音更の中士幌原野に移住した。
しかし、過酷な自然条件などに対し、不平不満が相次ぎ、団体内は一時「殺気を含む」ほどになったが、中田の粘り強い説得で分裂の危機を脱したという。
「中田宮五郎は中有知村で村会議員、市原勇吉は村長をしていた人物。彼らが生活に困っていたわけではなく、困窮した村民から頼られて決意したのだと思う。リーダーがしっかりしていたので、困難を乗り切れたのだろう」=武儀史(武儀開拓百周年記念協賛会)を編集した藤川久弥さん(56)=。中田宮五郎は村会議員を経て大正十年、一級村になった音更村の村長に就任する。
洪水に見舞われた石川県能美郡新丸村。北海道に活路を見出そうとした久保清次は同二十九年、十勝に入り、幸震村(現帯広市大正)の札内川右岸約二百三十ヘクタールに移住を決意、加賀団体として同三十年三十一戸、同三十一年三戸、計三十四戸が移住した。
◆今も名前残る加賀
久保は教育者(校長)だったが、請われて団長になった。「新丸村には学校があっても家の事情で学校に通えず、文盲の人が多かった。北海道に渡るとなると、道庁との交渉など読み書きができる先生が頼られたのではないか」と道下實さん(65)=加賀開拓百年史編集委員長=は説明する。
同史を編集・執筆した井上さんは「学校にいけなくても頭脳明せきな人が多く、同郷を守ろうとする助け合いの精神に富み、団結意識が強かった」と言う。加賀の名は加賀町内会として今も残っている。
この二団体に限らず多くの団体移民と単独移民と小作移民が大量に十勝に入り、開拓を始めた。これらの移民の大地に滴る汗と苦労によって十勝の農業は花開こうとしていた。
(十勝20世紀取材班=小野寺 裕)(99.10.9)
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<北海道移住民規則・明治30年>
団体移住、そのほか一定の資格条件所有者に対し、10ヘクタール以内の無償貸付、払い下げを可能にしているが、通常は1戸当たり5ヘクタール、成功期間5カ年で無償貸与、払い下げとなっている。
<移住者の推移>
十勝に移住した人々は明治10年代から45年まで45府県、約1万6000戸、6万人。人数は富山、岐阜、宮城、福島、福井、徳島、石川、香川、山形、新潟の順(新十勝史)。
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