◇食糧基地の基礎築く◇
広範囲に自作農交換分合で効率化
「貴様らあ、俺から土地を取り上げるつもりらしいが、とれるものならとってみろう」「おれを殺してから土地を取り上げろ、おれが生きている限りは土地は渡さんぞ。ようく覚えておけ!」。
坂本直行の油彩画「日高山脈を望む」が表紙を飾る「人間の土地」(吉田十四雄著)は、帯広市内のある農場をモデルにした全8巻からなる大河小説で“太閤”の異名を取る山岡源三が主人公。この1250ヘクタールもの畑を持っていた大地主の生涯をつづった小説には、戦前戦後の農家の様子が克明に描かれている。
◆昭和21年に2法
冒頭の言葉は最終巻、終戦を迎え、世の中に民主主義という耳慣れない言葉が生まれ、地主−小作という支配関係が崩れようとする中、大地主が叫んだ言葉だった。
戦争に疲弊していた人々が徐々に立ち上がろうとしていた昭和21年(1946年)10月。占領していた連合軍司令部の指導によって時の政府からいわゆる農地改革法と呼ばれる「自作農創設特別措置法」および「改正農地調整法」が相次いで公布された。
この二つの法律は、(1)不在地主、在村地主の土地を強制的に買い上げ、小作人に売る(2)農地の買収、売り渡しは2年間で完了させる−などをうたい、地主による土地所有制度を解体させ、自作農を広範囲に設けることが狙いだった。
北海道は広大なため、本州の小作は3ヘクタールが限度だったのに対して、12ヘクタールまで自分の土地を持つことを許された。また、買収、売り渡しの作成計画を練る各市町村の農地委員会も、その構成を戦前の地主5、自作農5、小作5から、地主3、自作農2、小作5と比率を変えて、圧倒的に小作に有利になるように配慮がなされた。
そうして、次々に自作農が生まれていく。「畑がもらえると聞いたときはうれしかったネェ」と池田町信取(のぶとり)に住む岩谷ツマさん(88)はしみじみと語る。岩谷さんは、現在では持っていた農地を手放したが、戦前から辺り一帯の大地主でもあった高島農場の小作人として、亜麻や豆類を栽培していた。
◆改革後も課題山積
わずか3ヘクタールの農地で「収穫した物は、すべて農場に収めていたネェ。そこから残ったわずかな物を家族の食糧にしていた」と振り返る。いくら耕しても自分の物にならない畑を、夜明け前から起き出して、日没まで夫の故角治さんら3人で働いたという。
だが、改革後も課題は山積だった。小作時代は住まいの周りを耕していたが、改革後は歩いて20分ほどの高台にある畑が割り当たってしまったのだ。こういった実情を無視した土地割り当てから生じた、問題は十勝だけでなく広大な土地を所有する道内では多く見られていた。
当時、既に「農地調整法」(昭和13年)「交換分合斡旋補助」(同14年)といった助成策はあったが、実情にはあっていなかった。十勝地方史研究所の井上壽さんは「農地改革も大事だが、本当は交換分合の方が重要。耕地が分散していたものを交換によって集約させ、生産効率が高まったからだ」と指摘する。
◆封建支配から解放
こうした実情を踏まえて、問題を解決するには昭和24年に制定される「土地改良法」を待たなければならなかった。そして、第一次計画が翌25年からスタートした。(1)土地条件の差が明らかで、水利権調整が困難な地帯がある(2)交換分合のために家屋移転が必要−などを盛り込み、初年度だけで道内30区の1万264ヘクタールの交換分合を実施したのである。
昭和33年には第二次計画も策定され、それぞれ5カ年計画で、連綿と続いてきた封建的軍国主義支配体制から農民を解放していった。一方で、交換分合を積極的に推し進め、さらに効率を高めたことで、十勝が“日本の食糧基地”と呼ばれる基礎がここで築き上げられた。
(開拓編おわり・十勝二十世紀取材班=佐々木努)(99.10.23)
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<その後の農地改革>
封建的支配から解放された小作は自作農へと生まれ変わったが、農場を経営していく上での零細性は何ら変わることはなかった。そこで、これを克服するため昭和33年、道は増反事業などを中心とした経営農地拡大対策を実施に移した。これを機会にして、表面上は土地の所有を個人にしながら、実質的には集団的土地所有で、労働も報酬も平等とする生産共同化を推し進めていく。結局、これが後の機械化や農協誕生の土壌となった。
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