開墾の始まり

◇交易で栄た沿岸部◇

「十勝組合」で最盛期に

◆静岡藩から大津へ
 十勝の開墾は沿岸部から始まった。約百三十年前の明治四年(一八七一年)、静岡藩から豊頃町大津に入った農家六戸が麦、豆、麻などを試作した。
 十勝地方史研究所の井上寿さんは「静岡藩は、この地にどんな作物が適しているかを確かめるために作った。それでも、同じ時期に十勝に入ったほかの藩と違い、アイヌに農業を指導するなど開墾にはかなり積極的。しかし、廃藩置県(同四年)で本州へ帰ってしまった」と説明する。
 内陸部はまだ、先住民族アイヌが集落を作っている以外は未知の地。和人が調査で入る機会はあっても定住して農業を始めるには至っていない。当時の経済は沿岸漁業とアイヌとの交易が中心。資本力を持つ商人が藩にお金をおさめる代わりに、地域経済の支配権を得る場所請負人制度が幕末にかけてとられ、十勝場所と呼ばれる広尾や大津の沿岸部が物産の集積拠点として栄えていた。
 十勝場所の請負人として実権を握ったのは函館に在住する商人、杉浦嘉七。アイヌが山中で取ったシカやクマの皮などの狩猟品をタバコや糸の日用品との物々交換で集める一方で、アイヌを労働者に雇って秋サケやコンブの漁を行い、函館や本州へ供給する事業を行っていた。
 広尾町郷土研究会の太田善繁さんは「杉浦は、のちに函館で国立銀行設立に携わる豪商。天保十二年(一八四一)から三十四年間にわたって十勝の経済を独占する。これに対しアイヌを搾取しているとの指摘がある。しかし少数の和人が多数のアイヌを使い、これだけ長く商売を続けられたのはアイヌと和人の両方にとって、生活しやすい環境だったからだろう。だから経済は発展していった」と考える。

◆組合解散で転機
 そして十勝の事業は、杉浦の流れをくんだ和人とアイヌの代表十三人で構成する十勝組合の発足(明治八年)で最盛期を迎える。取り扱う物産は広尾産コンブが主力。さらに、道内他地域でシカが減少し生息数が多い十勝に大勢の猟師が入ったため、「大津はシカの角や皮を奥地から集める拠点になり、百戸程度の集落ができたほど」と太田さんは語る。
 こうした中、沿岸部に一つの転機が訪れる。十勝組合は、地域で起業を目指す後発の和人を規制して排他的だったため、開拓使が明治十三年に解散を命令。きっかけを作ったのは新潟の実業家石黒林太郎で、井上さんは「石黒は、大津に河港を造る計画を持ち、政府に出した意見書で、地域の開発が依然として遅れ、アイヌを使い暴利をむさぼっている−と十勝の一般開放を訴えた」と解説する。
 十勝組合が解散時に清算した利益は現在の数億円に相当する五万三千円。このうち一部を広尾や大津の学校や病院建設に献金して地域に貢献する一方、「十勝沿岸に一般の和人がどっと入ってくる機会をもたらした」(太田さん)。

◆シカとれず内陸へ
 そして、重要な産物の一つシカが明治十二年と十五年の大雪で大量に餓死し、とれなくなる。「猟師がシカ猟に山に入ると、奥地の様子がだんだんと分かってくるようになる。シカ猟をやめた一部の猟師たちは池田や幕別で自分たちの生活のために、作物の栽培を始めた」と井上さん。猟師や商人ら和人が沿岸部から内陸部へ徐々に繰り出し、二十世紀の足音を聞くようになる。(十勝20世紀取材班=児玉匡史)(99.10.4)

◇    ◇    ◇

 人類の長い歴史の中で私たちが住む十勝はこの二十世紀、どんな軌跡をたどってきたのだろうか。まずは地域経済の礎を築き、現在も基幹産業となっている農業にスポットをあてて振り返ってみた。十勝二十世紀、開拓編−。

<開拓使>
 明治政府は明治2年、蝦夷地を北海道に改め開拓使を設置する。ロシアが北方で勢力を強め、本道の防衛には地域開発が必要と判断したためだ。このとき、十勝地域は十勝国となる。しかし政府による開発の手は十勝に届かず、廃藩置県までは静岡や一橋など徳川系の藩に支配をまかせる。



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