碑に刻まれた名前
 

「戦友は死んでもなお、故郷に帰れない」

「十勝支庁」分の922人も



 どこまでも続く白いサンゴ礁と透き通る青い海。容赦なく照りつける太陽が、南国に来たことを実感させる。

 沖縄本島の南端、糸満市。美しい景色が目の前に広がる摩文仁(マブニ)の丘に、沖縄戦全戦没者の名前が刻まれた「平和の碑(いしじ)」が建つ。太平洋の方向に扇の形のように並ぶ石柱には、県民の4分の1が命を奪われた沖縄の民間人、米国軍人、日本が当時支配していた朝鮮や台湾の人の名もある。

 その中でも「北海道」の列が異様に長い。支庁別に連なる1万787人は、都道府県別戦没者数で沖縄を除き最多。太平洋戦争末期、本土決戦に送り込まれた軍隊の主力は、北海道、東北出身者で編成されていた。「十勝支庁」の後には922人の名が刻まれている。

 60年前も、こんなに暑かったのだろうか。梅雨が明けない沖縄は、湿気で体感温度は30度以上。北国育ちの体にはこたえただろう。ちょうど今ごろ、日本軍は米軍の圧倒的な軍事力、豊富な物資の前になすすべもなく、民間人を巻き込んで、南への逃避行と血みどろの抵抗を繰り広げていた。

 「南部は大変さー。道路や宅地を造成すれば、必ず人骨が出てくる。不発弾も多かったよ。子供のころ、さびた鉄かぶとと白骨化した日本兵を見たことも1回ぐらいじゃないよ」と、丘まで案内してくれたタクシー運転手の具志堅昌邦さん(51)は言う。観光名所の1つとなり、きれいに整備された丘からは、当時の惨状はもう伝わってこない。


糸満市の摩文仁の丘に建つ「平和の碑」。十勝出身者922人の名前も刻まれている

 太陽の光も、風も、においも、十勝とはあまりにも違いすぎる。この南の島で、922人は何を思って死んでいったのだろうか。懐かしい家族の顔か、大平原か、北の冷気か、今となっては知る由もない。

 その大半の遺骨はおろか、どこで、どんなふうに亡くなったのかさえ、はっきりしないという。親、妻、兄弟、子供、戦友、恋人たち。弔いたくても弔うことができない人々は唯一、この碑の前に立つことで、彼らが生きていた証しを確認する。

 激戦の生き残り、上士幌町在住の満山凱丈さん(82)は今年も慰霊の旅に訪れた。6月7日、沖縄に降り立った満山さんは「戦闘前、私たちは上の人の指示で身元を表す認識票を外された」と語り始めた。薄い真ちゅう製の認識票は、物資の足りない日本軍の武器に使われるのだと思った。

 「その時はまさかこんな負け方をするとは思わなかった。後になって、認識票を外したのは、死んだとき、所属部隊を敵に知られることを恐れた軍上部の命令だと分かり、悲しいやら、悔しいやら。戦友は死んでもなお、故郷に帰れないんです」

 戦闘の末に残った右目だけが真っ赤にはれていた。

(酒井花)(05.06.13)

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 第二次世界大戦で国内唯一の地上戦となり、20万人余の犠牲者を出した沖縄戦。本島の摩文仁の丘に建つ、「平和の碑」には十勝出身の戦没者922人の名前が刻まれている。生き残った元日本兵の慰霊の旅(7−11日)を通じ、故郷から遠く離れた場所で果てた人の無念、平穏な暮らしから一転して戦禍にのみ込まれた住民の証言を伝える。戦後60年、今もなお遺族の訪問が絶えない沖縄は、1人ひとりの命を無駄にしないという、祈りに満ちた島だった。
 

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