蝦夷地を愛し趣味に生きた漢
自由人 武四郎

8.趣味人の原点


市川団十郎や勝海舟の“団扇サイン”も
芸術に親しみ江戸文人と交流


 武四郎はたびたび蝦夷(えぞ)地を訪れているが、全国を旅した武四郎にとっては蝦夷地もその一部にすぎない。1834年(天保5年)、16歳のときに三重の生家を出てから放浪生活に入り、九州から近畿、四国などの諸国を回って見聞を深めた。

 しかし、全国を旅するだけの費用をどうやって工面したのだろうか。それには、武四郎の持っていた文化的素養や技術が生かされた。

■篆刻などで費用工面


勝海舟が武四郎のために書いた「渋団扇帖」の一部
 武四郎は13歳のころ、津(三重)の藤堂藩儒者である平松楽斎の塾に入り、16歳まで詩歌や書画などの素養を培った。

 道開拓記念館の三浦泰之学芸員は「武四郎の父親も庄屋を営み、比較的恵まれていたので、茶や歌、絵に親しんでいたようだ。放浪の間でも著名な漢詩人の元を訪ねて教わったりしながら、独学的に学んでいったのではないか」と説明する。

 武四郎は、そうした中で習得したはんこを彫る篆刻(てんこく)や挿絵描きによって、旅先での宿泊のお礼をしたといわれている。

■文化社会に精通

 旅に出ないときは、文化の中心である江戸に住んでいた。河鍋暁斎、富岡鉄斎らの画家をはじめ、書家や高僧らとの交流を深め、文人社会に精通していく。こうした交流を通じて、武四郎は書画や骨とう品を集めていった。武四郎は外出時に必ず団扇(うちわ)を持ち歩いて、会った人に書いてもらったという。市川団十郎や勝海舟ら武四郎の友人・知人の手による書画、詩歌が書かれた「渋団扇(しぶうちわ)帖」はその一例だ。

 「当時の生活文化でも交流の深い人に絵を描いてもらったり、詩歌を詠んでもらったりするのは日常的な行為だった。例えば、本の序文や後書きを書いてもらうようなもので、渋団扇帖は現代版サイン帳といえる」と三浦学芸員は説明する。

 武四郎の日誌の中には、武四郎自身が描いた絵もある。道開拓記念館の笹木義友主任学芸員はいくつかの絵を見て、「山の連なりを見下ろせる地点はないのに、まるで空中の高い位置から見下ろしたように、山並みを的確かつ立体的に描いている」と指摘、武四郎の空間認識の能力に驚く。

 幼いころに芽生えた武四郎の書画などの芸術や骨とう品に対する関心は、蝦夷地調査の間も、江戸に戻ってからも薄れることはなかった。関心の赴くまま、生涯かけて集めた品々は、武四郎の晩年までの人生を彩っている。(山本慶史)(04.07.18)
 
「松浦武四郎〜時代と人びと」 23日から道立帯広美術館

 午前9時半―午後5時(月曜休館)。チケットは前売り・団体観覧料は一般400円(当日500円)、高・大生200円、中学生以下無料(心身に障害のある人は無料)。勝毎サロン、藤丸チケットぴあ、コープベルデなどで販売中。問い合わせは十勝毎日新聞社事業局(0155・22・7555)へ。

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