新得佐幌川付近で野宿 内陸へ一歩
「アイヌ弓矢で狐得て一同食べ」
ハンノキ、ヤナギ、シラカバが生い茂り、鳥や虫の鳴き声が絶え間なく聞こえる新得町の佐幌川上流付近(北新内西6線185)。この場所に「松浦武四郎野宿之地」の石碑が建っている。
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新得町佐幌川上流付近にある「武四郎野宿地記念碑」と新得町郷土史研究会の齊藤会長
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1858年(安政5年)の春、41歳の武四郎は残雪の狩勝峠を越え十勝の内陸へ初めて足を踏み入れ、「一の沢」を下って佐幌川との合流点の南岸に宿泊したという。道案内役のアイヌと幕府役人も一緒だった。
■記述通りの地形
武四郎の戊午(ぼご)日誌には「川巾(幅)七―八間、川底平磐(盤)の一枚岩、急流なり、左岸は崖の如く直立して、行動困難なるために右岸に渡り、椴(トド)の木の多い処で宿泊する」とある。
新得町郷土史研究会はこの記述を基に、野宿の地を割り出し、1987年に記念碑を建立した。同研究会の齊藤仁会長は「(記念碑わきの上流は)武四郎の記述通り、川底が平盤一枚岩の地形になっているので、おそらくこの周辺だろう」と話す。
戊午日誌によると、武四郎は、富良野岳方面からサヲロルベシベ(現在の狩勝峠の北約14キロ地点)に到着した。新得に住む松浦武四郎研究会の秋山秀敏さんは「到着地はおそらく、西佐幌川と『二の沢』の中間にある標高781・4メートル付近。当時狩勝は石狩アイヌと十勝アイヌの通路だった」という。
野宿地での様子は、戊午日誌に詳しい描写がある。「一同一椀(わん)ずつ飯を食い、食後、アイヌ弓矢で狐(キツネ)を一疋(ぴき)得て来たので、屠(ほふ)りて一同食べたのだが、夜になって宿所の辺りでしばしば狐が鳴くので、土人等も心地悪気であった」
■十勝の調査は4回
武四郎が初めて十勝入りしたのは1845年(弘化2年)で、28歳のとき。襟裳から釧路の太平洋沿いを通過した。1856年(安政3年)にも同じ海岸線を通っているが、内陸部については広尾や大津のアイヌから見聞したことを記録した程度だった。
そして2年後の1858年、武四郎は「東西蝦夷地理取調役御雇」として全道の調査旅行の中で、こうして狩勝を越えて十勝に入った。この年は春と夏の2回探索しており、十勝での調査は合わせて4回にも及ぶ。
帯広市在住の郷土史研究家井上寿さんによると、江戸から明治期にかけて十勝入りしたのは、15人前後。
「武四郎は十勝の内陸をつぶさに回っただけでなく、膨大な記録を残している。その意味で他の探索者と違い、十勝の郷土史を語るには欠かせない人物だ」としている。(山本慶史)(04.07.13)
<「戊午日誌」と「十勝日誌」>「戊午日誌」は武四郎が1858年(安政5年)に蝦夷地の内陸部や海岸部を調査したときの日誌。幕府に提出されたが、お蔵入りとなり、一般の目に触れることはなかった。「十勝日誌」はこの「戊午日誌」などを基に書き上げられたもので、普及版として興味をそそるためのフィクションもあり、日程などに違いがみられる。
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