蝦夷地を愛し趣味に生きた漢
自由人 武四郎

1.国郡検討図の時代背景 


国防政策見直し…幕府が北方に関心
「蝦夷通」に白羽の矢


 幕末期から明治初期にかけて蝦夷地(北海道)に6度にわたり足を踏み入れた男がいた。背丈1メートル50もない小柄な男だったが、当時、明らかでなかった内陸部に入り、つぶさに見聞し、それらの記録を基に数多くの蝦夷地関係の著作を残した。この男こそが、のちに「北海道の名付け親」と呼ばれる松浦武四郎だった。


「北海道の名付け親」とされる松浦武四郎

■西欧列強の脅威

 ペリー来航の50年以上も前の1792年、ロシアのラクスマンが通商を求めて現在の根室に来航。アメリカ、イギリスなど西洋列強が植民地を求めてアジア進出をうかがっていた。対外情勢が緊迫化する中、幕府は国防政策を見直し、北方への関心が高まっていく。

 「19世紀以降、ロシアは燃料を確保するため、雑居の地だった樺太に既成事実として軍隊や囚人を送り込んでいた。蝦夷地もいわゆるグレーゾーン。だからこそ、幕府は早急に蝦夷地の明確な統治化を図る必要があった」と、道開拓記念館の笹木義友学芸員は、蝦夷地調査の理由を説明する。

■実績かわれ御用任命

 そこで白羽の矢が立ったのが、「蝦夷通」として広く世間に知られていた武四郎だった。

 武四郎は1818年(文政元年)、伊勢国須川村(三重県三雲町)に生まれた。幼いころに全国から伊勢参りに訪れる人を通してさまざまなことを耳にし、見知らぬ土地への好奇心を強めていった。


松浦武四郎作「北海道国郡検討図」=明治2年(1869年)
 蝦夷地へ向かった理由も、26歳のとき清国がアヘン戦争に敗れたことで対外的な危機感を募らせていた長崎で、蝦夷地に迫るロシアの脅威を耳にし、自分の目で状況を把握しようとしたためといわれる。50年(嘉永3年)までに、私費で蝦夷地、樺太などで3回にわたる調査を行った後、「蝦夷日誌」などの関係の諸著作を残す。

 そうした実績が幕府の目に留まり、55年(安政2年)に幕府の雇いとして蝦夷地御用を任命される。2年後の57年(安政4年)、「蝦夷地山川地理取調御用」を命じられ、内陸部の何百本もの川筋や膨大なアイヌ語地名を収めた「東西蝦夷地山川地理取調図」を完成させた。この取調図が、明治に入り刊行される「北海道国郡図」の国郡設定の段階で使われた「北海道国郡検討図」の原図となった。

 検討図は2001年、北海道ホテルの林光繁会長(十勝毎日新聞社社長)が東京の古書展で見つけ、「北海道の原点を推敲(すいこう)した貴重な史料。道民の手元で有効に調査・研究されることが何より重要」として入手し、02年、道開拓記念館に寄託した。

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 北海道の名付け親として知られる松浦武四郎(1818―88年)の特別展・十勝毎日新聞社創刊85周年記念「松浦武四郎 時代と人びと」(十勝毎日新聞社、道立帯広美術館、松浦武四郎帯広展実行委員会、NPO十勝文化会議主催)が23日から8月22日まで、道立帯広美術館で開かれる。北方探検家として語られることが多い武四郎だが、同展覧会では「北海道国郡検討図」をはじめ、残した書画、骨とう品や書簡約70点を展示し、趣味人、ジャーナリスト、憂国の志士など多彩な顔を持っていた武四郎の素顔に迫る。武四郎の魅力とは何なのか。さまざまな角度からその人間像を探った。(山本慶史)(04.07.10)


「松浦武四郎〜時代と人びと」 23日から道立帯広美術館

 午前9時半―午後5時(月曜休館)。チケットは前売り・団体観覧料は一般400円(当日500円)、高・大生200円、中学生以下無料(心身に障害のある人は無料)。勝毎サロン、藤丸チケットぴあ、コープベルデなどで販売中。問い合わせは十勝毎日新聞社事業局(0155・22・7555)へ。

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