勝毎ジャーナル
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送り手たち

目を引く看板で宣伝

眠気に耐え回した映写機

 キネマ館前の看板は通りに大きく掲げられ、使用するベニヤ板は32枚に上った。1955年(昭和30年)、当時15歳だった菅野孝雄さん(62)=帯広市、フォト・アート代表=は、初めて見た巨大な映画看板を目に焼き付け、キネマ館の看板部社員となった。

 社員で唯一、社長宅に下宿し家族同然に過ごした。「世話になった映画館が幕を閉じる。懐かしい思い出はそりゃあたくさんある。寂しさがよぎるね」と、目を潤ませた。

 キネマ館は19年(大正8年)、映画よりも演芸公演が中心だった時代に市内西2南9に登場。翌年、故・夷石民夫氏が買収し80年余りの歴史をスタートさせた。現在のポポロビルは4代目になる。

通路にあふれる観客

 48年(昭和23年)から約2年間、夜間の部の映写技師として勤めた本間辰弥さん(75)=帯広市=は「娯楽と言えば映画しかなかった時代。通路まで人があふれて、こんなもうかる仕事はないと思った」と華やかだった時代を懐かしそうに語る。上映は午後10時ごろまで。「妖怪物を上映した日には、真っ暗な帰り道が嫌だったよ」という。

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映画全盛期、モダンな外観とにぎやかな宣伝物が通行人の目を引いた3代目キネマ館。連日多くの人でにぎわった(写真は本間さん提供)
 暖房のない映写室は底冷えし、映写機は子守歌のようにカタカタと音を立てた。「うとうとしちゃってね。居眠りの間にフィルムが終わって真っ白いスクリーンの時もあったよ」と苦笑いする。

 昭和30年代に映画全盛期を迎えると、大々的な宣伝合戦が繰り広げられた。看板絵など宣伝物作りは、絵師のそろった看板部の仕事だった。菅野さんは「ほかの映画館に看板が掛かれば、みんなで出来栄えを確かめに行ったもんさ」と振り返る。劇中に登場するトンネルの縮小版や、10メートルもある鯨の張りぼてを作ったこともあった。毎回のように目を引く宣伝が並んだ。

時代の流れ受け止め

 「キネマ館」の夷石行夫社長は「祖父(民夫氏)の代から続いた上映を、自分の代でやめるのは残念。今度どんな映画があるのか、先に分かるのがうれしかったけれど、これで普通の人と一緒になっちゃうね」と冗談で寂しさを隠す。元社員たちも一様に「仕方がない。いつかは来ると思っていた」と、時代の流れを受け止めている。十勝の人々を楽しませてきた一条の光が映し出す物語。その明かりが間もなく消える。(岩谷真宏)(03.11.25)

 道東に唯一残った地場の映画興行会社「キネマ館」は、キネマ館をはじめとする系列全館を今月末までに閉館、プリンス劇場は市民団体により新たな一歩を踏み出した。上映に携わり観覧客に物語を届けた人々、来館し物語に酔いしれた人々。キネマ館を通じて映画を愛した人たちの、閉館への思いを聞いた。


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