勝毎ジャーナル
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(3)役場出張所前の小さな地蔵(幕別町糠内)

亡くした娘しのび祭る

 幕別町役場糠内出張所前の通りに面して小さな祠(ほこら)があり、中には手のひら大の地蔵が鎮座している。見過ごしてしまいそうな祠だが、その由来は明治の開拓史にまでさかのぼる。

写真
町役場糠内出張所前の通りにたたずむ祠。中には千代をしのんだ地蔵が祭られている
 糠内地区への入植は1898年(明治31年)5月3日、富山県五位村出身者を主体にした五位団体から始まる。第1次入植戸数は23戸、123人。糠内中堅倶楽部が1942年に発行した「郷土の歩み」によれば、「冬は僅かに残った馬鈴薯を主食として」などの苦闘もあった。

 五位団体を率いたのは吉田平一郎。寒地に奔走する中、まな娘の千代のことが気掛かりでならなかった。千代は健康に恵まれず、平一郎は「開拓の目鼻がついたら富山へ迎えに帰る」ことにしていた。

 1899年(明治32年)5月7日、千代が死去。再会を夢に見ていた平一郎と妻は「泣くにも泣けなかった。愚痴も起きた」という。

 夫婦の胸中を察した近隣の団体員は、富山に向かい、儀式で魂入れした地蔵を持ち帰った。そして郷土に準じて8月24日を地蔵祭とした。祭壇を玉簾(ぎょくれん)などで飾り、和歌を詠み、千代をしのんだ。

 1953年から8年間、糠内中で教員をした橋本正三さん(72)=帯広市在住=は「共同墓地入り口(浄永寺横)にあった地蔵を、青年たちが背負って糠内小の教室に運び、祭壇を作った。全地区から若者が集まり、盆踊りでにぎわった」と全盛期の地蔵祭を振り返る。

 85年、現在地に祠が移され、以後、地蔵祭は糠内コミセンで行うようになった。

 青年たちが町を離れ、担い手が減り、1世紀続いた地蔵祭は98年を最後に途絶えている。(木村仁根)(03.08.27)


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