移住者・1

後藤吉平さん(音更町出身)


◇開拓の苦労 今も忘れず◇

「せわしくないのがいい」

 南米中部パラグアイの首都アスンシオン市に向かう航空機の窓から、広大な平原を見渡せた。かつては原生林が広がっていたが、日本などからの移住者の手で切り開かれ、畑や牧場に変わっている。

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入植後、約半世紀になる後藤さん(中央)。左右は五十六さんと玉美さん

■戦後第1陣に参加

 「森林を分け入ってたどり着いた入植地は、街から30キロほど。街が近くて良い場所だった。2年かかって収穫した最初の作物は価格が安く、経費を引いたらもうけはなかったけれど、みんなよく頑張った」。移住の戦後第1陣に参加した音更町出身の後藤吉平さん(74)は、開拓に苦労した時代をはっきりと覚えている。

 農業を営んでいて、新制中学建設地をめぐり地域の対立が起きた。「ちょうど新しい中学校区の境界にいて、対立の中心に置かれた。ごたごたに巻き込まれ、新しい地を求める気になった」。パラグアイへの移住話があることを知り、家族には自分から切り出した。しかし、当時の十勝支庁や道庁の職員は、南米についての知識は皆無。「中央の移住担当の責任者と会って、ようやく移住を決めることができた」と振り返る。

■雑貨屋の店舗拡大

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 入植14年後に、現在地で雑貨屋を始めた。初めの資金繰りの苦労を乗り越えてからは、順調に営業を続けられるようになった。赤いれんがの家が並ぶ路地を通り、パラグアイ人の少女が駆け込む。店はすっかり街並みにとけ込んでいた。

 少しずつ拡張を続けた店舗は現在では、開店当時の10倍近い約500平方メートル。野菜や肉類、日用品が数多く並ぶ。移住者が「時代遅れの国に住んでいると思っているかもしれないが、そんなことはない。子供だって携帯電話を持っている」と説明するように、パラグアイの生活水準は決して低くはない。

 今では、息子夫婦の五十六(いそろく)さん(31)と玉美さん(29)に店を任せ、店頭に立つことは少ない。後藤さんは、よく日焼けした顔に笑みを浮かべ店の奥にいた。「隠居の身。もういいしょ。この国は、日本のようにせわしくない。そこがいい」。長年暮らしたパラグアイへの愛着を示し、静かに笑った。(岩谷真宏)

<パラグアイ共和国>
 南米中部の内陸国で、日本よりやや広い面積41万平方キロメートル、人口約510万人(2000年同国調査)。首都アスンシオン。国民の多くは白人とインディオ(グアラニー族)の混血で、公用語はスペイン語と現地語のグアラニー語。亜熱帯性気候で気温の年・日較差は大きい。大豆、畜産が主産業となっている。

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 国際協力事業団(JICA)事業の一環で、今月5日から17日まで、パラグアイを訪れた。駐パラグアイ日本大使館の伊藤庄亮大使は「移住者は、日本と南米をつなぐ大切な存在。日系人が居るから南米の人々も日本のことを考えてくれる」と、移住者の意義を強調。移住者をはじめ、青年海外協力隊員、農業関係者、市内の北海道国際センター帯広で学んだ研修員など、十勝の関係者が多数いる。異国で活躍する人々の様子を紹介する。(02.2.26)



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