勝毎ジャーナル
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池田・幕別町史にみる永井三治

魚買い付け失敗…日高、十勝へ
 「幕別町百年史」には、永井三治の子孫・永井勝次郎の談話が載せられている。三治は文政6年(1823年)に生まれ、父の武利は伊達一門宮床の家老、三治はその長男。伊達勝三郎から北海道の開拓地として許可された後志国狩太の調査を命ぜられたので、部下とともに渡道したものの、適地ではないと見切りをつけ、しかも藩主から預かった費用を魚の買い付けに回して失敗し、この事故で帰国することもできず、一人日高に走ったと述べている。

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士幌町の音更川にかかる新士幌橋より100戸分の方向。永井はここにも住んでいた

 宮床伊達家が北海道跋渉(ばっしょう)にあたったのは明治2年(1869年)のことである。この年の9月に開拓使に願書を提出しているので、このころに起こした事故と想像される。

 三治は元の名を武信、戸籍上は幸太郎だが、いつ改名したかは分からない。おそらく日高に住むようになってからのことではなかろうか。

 日高の沙流郡は伊達邦成とは別に、仙台藩士が明治3年に士族団体移住として入地しているので、そこに接近していたのではなかろうか。生活のため各地を転々としてシカ猟に従事していたであろう。武士の身でありまた年齢から考えてみても、農事に携わっていたとは考えにくい。

 明治13年(1880年)は十勝組合の解散、シカ景気、サケ景気にわいて、それまで数戸でしかなかった大津は、交通運輸の門戸として一気に大集落となり、戸数も100戸となったし、そればかりか内陸の十勝川流域の利別太、止若、白人あたりにも多数の猟師、商人が入り込んだ。永井はこのころに止若に入ってきたふしがある。

 だが、「幕別町百年史」には、“日高から十勝に入ったのは明治14、15年ころ、初め利別太に住み、止若に入植したのは22年”とされている。また「池田町史」には“明治15年の大雪でシカの大量死滅を招き、伴ってシカを目当ての商取引が激減すると、さしも利別太をにぎわしていた商人や猟師たちも離散していったのである。こうした中で先の武田菊平や藤木専三、坂本八重作、前田友三郎、永井三治、三浦等六らは、そのまま利別太にとどまり、未開の原野を開拓し、農業経営に着手してゆくのである”としている。これらの基となったのは「北海道殖民状況報文・十勝国」であろう。

 では果たして最初に利別太に入植したであろうか。大川宇八郎の聞き取り調査によると重要な証言をしているのである。
(郷土史研究家、井上壽)(02.12.4)


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