市民活動の源流-1-

神戸から(上)


住民の命を救った横のつながり
行政主導より自分たちの手で

阪神・淡路を四年前に襲った地震は、死者6394人という尊い犠牲を出した。この震災でボランティアと非営利組織(NPO)が活躍、NPOという日本社会では聞き慣れない組織が、全国の注目を集めて四年、「特定非営利活動推進法(NPO法)」が昨年12月1日に施行され、これまで任意団体だったNPOが“法人”として社会的に認知されることになった。自治体財政の破たん、高齢化、治安の悪化、コミュニティーの崩壊…。これら問題に立ち向かい、21世紀の日本の社会を支える一つの核がNPOとなるだろう。十勝でのNPOのネットワーク構築を展望するために、第一部では全国のNPO先進地をルポする。まず神戸から−。

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震災のつめ跡が残る神戸市長田区。後ろの
クレーンは復興住宅の建設現場のもの

自分の家よりバケツリレー

「このまちには、仲間や友達、知り合いがたくさんいる。だから、まだ余震で揺れている自分の家も顧みず、すぐに駆け付けバケツリレーで火を消した」−。1995年1月17日未明、住民主体のまちづくりで知られる真野地区(神戸市長田区、約2700世帯)にも震災が襲った。19人の犠牲者が出たが、住民の素早い救助活動で被害を最小限に抑えることができた。一方、消防車はほかの地区の消火に追われ、到着したのは日も高く昇った午前11時ごろ。火は既に消されていた。住民の横のつながりが、災害からまちを救った。

公害問題からまちづくりへ

神戸の下町として木造住宅が密集していた長田区は、地震後に発生した火災により全体で917人もの死者を出した。地下鉄長田駅を降り、南へ歩いて20分。プレハブの商店や広い空き地など震災のつめ跡が途中にまだ残る。震災復興住宅の建設現場にも出くわす。長屋の並ぶ住宅街の一角、震災後建てられたプレハブ内に、真野まちづくり推進会(村瀬敏明代表代行)は事務所を構えている。

「真野のまちづくりは、もう30年以上にもなります」と、山花雅一庶務部長はこのまちの歩みを振り返る。住民運動が活発化したのは昭和30年(55年)代ごろ。付近の工場から出る騒音や河川汚染などの公害に対し、工場の移転を要求した。1980年、住宅と工場がすみ分けするため、市と協定を結び、16の自治会(町内会)、企業の代表、学識経験者などが中心となり同推進会が設立された。

工場が移転して空いた土地利用について、ワークショップを開いて話し合った結果、公園ができた。それまで1カ所しかなかった公園が10カ所までに増えた。また、地域の高齢化に対応し、福祉にも力を入れ、お年寄りを対象に給食サービスも実施している。事務所にはいつも、地区住民や学生7、8人、専従職員1人が集まり、まちづくりを考える。こうした長年にわたる住民本位の“非営利活動”が横のつながりを生み出した。

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事務所で震災時の記憶を語る山花部長

区画整理の復興を断る

震災後も、真野地区は独自のまちづくりを進めた。推進会は、この地区が市の土地区画整理事業に組み入れられるのを断った。「市が何もかも建ててくれると思うのは間違い。道路や建物よりも“人”が帰ってくることが第一」(山花部長)と、行政主導よりも自分たちの手で復興する道を選んだ。「当初、推進会の方針に反対していた人も、『区画整理が入っていたら働くに働けなかった』と思っている」(同)。自営業者はつぶれた店の前にゴザを敷いて物を売った。住民は自分で井戸を掘り、水を確保した。推進会はまちづくり会社「真野っこ」を設立し、他地区に避難した住民に情報紙を送り続けた。それがこの地区の活気を生んだ。

「公害問題が起きていたころは、住民と企業が真っ向から対立していた。でも、住民・企業・行政が一体となって進めていくのが、これからのまちづくり」と、山花部長は語る。「行政の助成を受けるにしても、法人化した組織としない組織では違いが出てくるのでは」。その一翼を担うため、推進会はNPO法人化を検討している。
(年間キャンペーン取材班=本田裕一) (99.1.3)

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