年間キャンペーン最終部



戦争を知らない孫へ

命の尊さをかみしめて


高木 菊義さん(85) 上士幌町
<プロフィル>1920年、上士幌町生まれ。41年に第二次大戦に従軍し、戦時中は一等機関兵として、特攻兵器「回天」(通称・人間魚雷)を積載した伊号三六七潜水艦に乗り込んだ。45年の終戦ともに広島県呉軍港に帰投した。


 健二へ
 自分が選んだ東京の大学で元気に勉学に励んでいるかい。

 健二も今年で二十歳(はたち)になったね。私が20歳のころといえば、兵隊検査を受けて海軍に入隊したころかな。

 見るも聞くも新しいことばかり。町内の5人の仲間とともに機関兵に選ばれたときは、胸を躍らせたんだ。それはそれは大勢の人が見送ってくれたよ。

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「戦争は悲しみしか生まない。孫には同じ経験をしてほしくない」と高木さん。戦争で散った仲間をしのぶため、出征時に贈られた日の丸の寄せ書きを今も大切にする

 その年(1941年)の12月8日、日本は世界を相手に戦争を始めたんだ。世界地図を見てごらん。太平洋の島々が戦場となり、日本は勢いに乗って一時はオーストラリアの手前まで攻め込んだ。だが、優位な戦況は長く続かなかった。健二が今住んでいる東京だって、毎日のように米国の戦闘機が定期便のようにやって来た。一日に何回もの集中爆撃で焼け野原になり、たくさんの人が命を落とした場所なんだよ。

 戦況が悪化するにつれ、45歳くらいまでの男は召集され、家を守るのは年寄りと女、子供ばかり。食糧生産や配給は満足いかなくなり、小学生は田舎の小学校やお寺、旅館、民家で疎開生活を送ったものだ。ひもじい思い、家が恋しくても帰ることさえできない、そんな状況を健二は想像できるだろうか。

 私はそのころ、「人間魚雷」という兵器を積んだ潜水艦に乗り込んだ。魚雷には人間が1人乗り込み、潜水艦を離れると敵艦に命中しても外れても、決して帰ることができない。だから、「鉄の棺桶(かんおけ)」とも呼ばれていたっけ。当時、戦争に勝つため、国に命をささげることが正しいことと言われていた。でも、魚雷に乗り込む仲間の背中を見送るのは、本当に寂しく、悲しかったね。その光景は今でも深く目の奥に残っている。

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 戦争のことは歴史でいろいろ学んだと思うが、人間の殺し合いであることに違いはない。現実に勝っても負けてもたくさんの人々が悲しみに暮れる。古里・上士幌から一緒に海軍に入隊した私を除く4人は、この戦争で帰らぬ人になった。私も戦地に赴き、家族や両親をきっと悲しませてしまったんだろうね。だからこそ、健二には私と同じ経験はしてほしくない。

 日本の戦争が終わって60年になるが、世界では今も戦争が繰り返されている。人間とは愚かだ。だが、人に対する優しさや思いやり、苦しみを乗り越える強さがあれば、人を傷つけずに済むはずだと思っている。健二にはそんな男になってほしい。

 健二には明るい未来がある。命の尊さをかみしめて、これからの長い人生を送ってほしい。

[2005.12.07]

※高木菊義さんの「高」の字は異体字です。

 <戦争被害>20世紀初頭から半ばまで、帝国主義を歩んだ日本は世界を相手に戦争を繰り返した。多くの国民が戦地に駆り出され尊い命が失われた。十勝では、日清戦争と日露戦争、第二次大戦出征兵士のうち、戦死者は約4780人に上った。「悲劇を二度と繰り返すな」と多くの体験者、遺族らが戦争の悲惨さを語り継ぐ。しかし、戦地に赴いた体験者の多くが他界、時の経過とともに戦争の現実は風化しつつある。戦後60年が経過した今、平和の尊さを認識し直す時期に来ている。

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