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【あの日あの時−十勝ひと物語−】 前ホクレン会長 矢野征男さん(6)

2010年03月21日 15時29分

苦しんだ出馬要請
農協運動ひと筋の信念貫く



昨年11月にJAめむろ本部事務所前に設けられた碑の前で。「協同一致」の文字は、組合長就任以来30年に及んだ農協活動への思いを込め、矢野さんが揮毫(きごう)した

 自分の人生を振り返ると選挙は、非常にかかわりの深いものでした。自分としては政治の世界に入る考えはありませんでしたが、選挙は組織的な取り組みだけに何度か出馬要請を受け、苦しみました。

 道内の農業界では長らく、道選挙区から参議院に農民出身者を送り出してきました。JAめむろの元組合長の高橋雄之助さんが1965年から2期12年間務めた後、北修二さん(元空知管内奈井江農協組合長、元北海道・沖縄開発庁長官)が引き継ぎ、北さんが3期18年で勇退、後継候補をめぐって関係団体で選考作業が行われました。

 候補となった元副知事の松田利民さんが辞退したため私に回ってきました。当時、道内の農業団体の役員で50代だったのは私ぐらい。農協青年部の全国組織代表などを務めた経験、41歳の若さでJAめむろ組合長に就任した経歴が買われたのでしょう、北さんの後継にと以前からいわれていました。

 参院選前年の1994年秋、農業団体のトップ5人から札幌市内のホテルに呼び出されました。「農民代表をなくすわけにいかない。組織から出すなら君しか適任者はいない。受けてくれないか」と5人に頭を下げられました。

 選挙との関わりは、22、23歳のころ、JA新得町の組合長だった石畑久成さんの道議選を手伝ったのが最初でした。1971年の高橋さんの2期目の選挙時は、農協青年部長として応援で各地を回りました。

 選挙で地域や家族が、仕事や家庭生活を投げ打つ姿を見てきたので、家族や周囲の人たちに迷惑はかけられないと、要請を断ったのです。当時は妻が病気がちで、入退院を繰り返していました。

 出馬要請は1回では終わらず、その後も、農協や芽室町などを通じて続きました。農民出身の議員がいなくなると思うと申し訳なく、出馬要請は農業界のトップの意向でもあったので、重みがありました。断ったものの悩みに悩み、苦しい決断でした。

 選挙には、1986年の衆院選でも当時の新村源雄さんの後継候補(道5区)として出馬の打診を受けました。新村さんが農協に来られましたが、当時、自民党の衆院議員の中川昭一さんを応援していた関係もあり、断りました。

 政治の近くに常に身を置きながら、政治家にはなりませんでした。その判断を悔やむことはありません。農協の青年部に入り、半世紀にわたり、農協運動ひと筋に歩み、自分なりの信念を貫けたのは幸せです。
 (聞き手・平野明、この項おわり)


 −道内の農業界と国会議員−
 戦後の道内農業界から政界へ進出したのは1947年に参議院全国区で当選した岡村文四郎が最初。62年にホクレン創立者の小林篤一、65年には道農協中央会会長の高橋雄之助が参議院道選挙区で当選を果たし、昭和40年代はじめには岡村、小林、高橋の3人が国会で活躍した。68年には、小林の後継者であるホクレン会長の河口陽一が当選。高橋の後を引き継いだ道農協中央会副会長の北修二引退後、農業界から出馬はない。

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