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特集

「絵画と写真の交差 印象派誕生の軌跡」によせて(3)

2009年03月07日 11時22分

東京都現代美術館学芸員 横江 文憲

 印象派の画家たちは、自然の光、人工の光をいかに画面に描きこむかに心を悩ませた。ドガは「夜の印象派」とも呼ばれ、スタジオで人工光を自在に操ったのである。

 彼らが活躍した19世紀後半、パリの電気事情はどうだったのかを見てみよう。1900年にパリで開催された国際博覧会は、〈電気の精〉との別名もあるくらい、すべての照明、動力を電気で対応したものである。電気の照明が普及する前、アーク灯の光が夜のやみを明るくしていた。しかし、アーク灯は強力すぎて駅や劇場では使用されたが、一般の家庭で使用できなかった。一般の家庭に電気が普及し始めたのは1880年代からのことであるが、電気の供給量は少なく、現在のように明るい部屋ではなかった。電灯とランプとの併用であり、人々は暗く揺れる炎の明かりで生活していたのである。

パリの街並みの記録に徹した写真家アジェ、写真が絵画に与えた影響

「ノナン・ディエール通り、パリ」 ジャン・ウジェーヌ・オーギュスト・アジェ 1910年 東京富士美術館蔵

 今回紹介する写真は、ウジェーヌ・アジェがパリの街並みを撮影した写真。アジェは、1857年にフランス、ボルドーの近くに生まれ、役者を志し地方巡業も経験したのち、パリで写真家として活動を始めた。彼は、失われてゆくパリの古い街並みを記録に留めようと考え、1898年から本格的に、この仕事を始めた。彼は1927年に亡くなるまでの約30年間に、8000枚もの大判ガラス・ネガ(18×24センチ)で、パリの街を撮影している。彼はアパートの5階に住んでいた。大型カメラ、三脚、ガラス乾板などの機材一式(20キロ)を抱え、エレベーターも無く、地下鉄の1号線が開通したのが1900年ということからも交通の不便さも推察できるような条件のもとで、彼は大変な仕事を成し遂げたのである。また、アジェは自分の暗室も写真に残しているが、暗室で使う安全光はランプであった。

 アジェは、自宅アパートの扉に「芸術家のための資料」という看板を掲げて、パリの街並みを撮った写真を売っていた。販売する相手は、図書館や博物館など公共の施設や、ポスト・カードの製作会社、カフェなどで個人相手に売っており、その中には、マン・レイや藤田嗣治等もいた。ユトリロは、アジェの写真を参考にして絵を描いたことも知られている。

 シュルレアリストとして知られるマン・レイが、編集に携わっていた機関誌『シュルレアリスム革命』にアジェの写真を掲載した。マン・レイは、アジェの徹底した記録写真の中に、現実を超えた世界を見出したのであろう。
(おわり)

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