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【あの日あの時−十勝ひと物語−】 舞踊家 松本道子さん(2)
2008年12月02日 13時18分
高校を出て上京 あこがれの夢の舞台に
その後、帯広三条高校に進学し「ダンス部」を創設。部活動の場所がないので体育館の片隅で練習していたのですが、最近の同期会で当時のバスケット部員から「肌をあらわにした姿に気が散って迷惑した」と言われ、驚きました。当時は若い女性が肌を出して踊るというのは珍しかった時代なのです。
私は三条高校を卒業したら東京に出て、二度と帯広には戻らないつもりでいました。昭和27年(1952年)の春、高校の卒業式の翌日、わずかな荷物を柳行李(やなぎごうり)に詰めて上京。中学時代から洋舞を習っていた松岡文也先生の紹介で舞踊家の平岡斗南夫氏が主宰する「平岡・志賀舞踊研究所」に内弟子として入ったのです。
念願の“ダンスざんまい”の日々は、想像を超えた厳しいものでした。先生は「創作は自身で試みるもの」とレッスンにはわずかな時間しか与えず、衣装縫いから家事まで、内弟子の雑用には終わりがありません。
徹夜明けのある日のこと、舞台に向かう電車の中でつり革につかまったまま眠って転倒、周りを驚かせたことが思い出されます。
しかし、あこがれの日比谷公会堂や日比谷野外劇場など、大小の舞台で、数多くの忘れられない作品に出演することができたのもこのころです。生涯忘れることのできない夢に見るような華やかな世界でした。
しかし、そこまで打ち込んでいたダンスでしたが、自分の才能のなさに打ちのめされ、上京して4年目に挫折。一歩も前へ進むことがかなわず、先生の元を去ることになったのです。
その後は東京で華道など、ほかの勉強をしたり、働いてみたりもしましたが、何をしても空回りするばかり。「私からダンスを取れば何も残らない」ということを思い知らされました。
そのような“どん底”の時に、多くの偶然と不思議なことが重なり、神様は帯広の1人の男性との結婚へと導いたのです。あれほど東京にあこがれ、二度と帯広には帰らないと出て行った私の急な人生の転換に、両親も戸惑うばかりでした。しかし反対する声も聞かずに帯広へと舞い戻ってきたのです。
嫁いだ先は豆菓子を製造する商売をしていました。家族は10人。住み込みで働いている工員も2、3人いて、料理、洗濯、掃除、豆菓子づくりの手伝い、それに結婚してすぐに長女が生まれたので、子育ても大変。朝から晩まで、くたくたになるまで働きましたが、親の反対を押し切っての結婚だったので一切泣き言は言えません。
「結婚するならダンスをやめなさい」と言われ、自分でも「ダンスをやめよう」と決心していましたが、そのつらさのあまり、夫の胸に涙を流したこともありました。
(聞き手・成田融)
■平岡斗南夫■ 日本を代表する洋舞家。1910年鹿児島県出身。29年に上京し、41年から中国大陸の日本軍慰問団として派遣された。慰問先で歌手の志賀美也子さんと出会って結婚、47年に「平岡・志賀舞踊研究所」を設立。全国各地に門下生を輩出している。89年に死去した後、長男・一路氏が継いでいる。
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