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【あの日あの時−十勝ひと物語−】 舞踊家 松本道子さん(1)

2008年12月01日 14時39分

父との思い出 戯れに踊った少女期



「踊らずにはいられない」と、ただただ突っ走ってきてしまった60年余り。今、振り返ると、一種“狂人”とも思える激しく熱い気性、自己中心的で変わり者の父・飯島安三郎(1965年死去、享年70歳)の血が、私の内に確かにあることを覚えずにはいられません。

 埼玉県出身の父は日大卒業後、5年間、中国・北京で外交官の仕事をしておりました。中国語、フランス語など4カ国語に通じ、さまざまな外交交渉の場で活躍したと聞いています。

 ところが「外交官など、一生の仕事に値するものではありません」と官職を捨て、突然音更の原野に入植、酪農生活を始めたのです。なぜ急に外交官を辞めたのか…、その理由は死ぬまで口にしませんでした。「一変した景色と環境に驚き、立ちすくむばかりだった」という母の言葉が耳に残ります。

 このころ私が4女として生まれました。初めての北海道での酪農はうまく続くはずもなく、理想と現実の厳しさの前に、酪農生活に終止符を打ちました。34年に弁護士の資格を得て帯広に移転、法律事務所を開業したのです。

 父は子供7人の大家族を自分の思うままに導いた人でした。「学校の勉強などはくだらん!」と、夜中に突然子供たちをたたき起こし、英語や中国語の詩を聞かせたりすることもありました。

 私が座敷で戯れに踊っていると、座敷のふすまを外して黒幕を張り、手回しの蓄音機で童謡、流行歌、クラシック、シャンソン、英語の歌など、さまざまな音楽を大音響で得意げにかけてくれました。父も衣装を作ってチャプリンの物まねをしていたことが鮮明に記憶に残っています。

 晴れた日には家族で着飾り、十勝川の堤防まで、タクシーに乗ってよく出かけました。子供たちは堤防の斜面で踊り、はしゃぎ回り、父はただ見守っているだけなのですが、まるで「アリスのお茶パーティー」そのものでした。

 私が中学3年になった時です。東京で洋舞を学んだ松岡文也という人が、帯広に初めて洋舞の教室を開設しました。そこで踊りを習い始めたのが、私の「舞踊人生」の本格的なスタートとなりました。


まつもと・みちこ
 1933年、音更町生まれ。52年に上京し舞踊家の平岡斗南夫氏に師事。57年に帯広に戻り結婚。58年に帯広市大通南15に「松本道子創作舞踊教室」設立。79年に公園東町に移転し「松本道子モダンダンス」と改称。後進の指導に努めるかたわら、自身も83年「高野聖」をはじめ、現役のダンサーとして新たな境地を開き続けている。


帯広の洋舞教室草創期 1947年に帯広出身の松岡文也氏が洋舞研究所を開設したのが始まり。51年に旭川の板谷友恵氏が帯広に「板谷バレエ研究所」を設立、通いで毎週、教えていた。58年、同研究所で習った田村順子氏がクラシックバレエの「萬バレエ研究所」を、松岡氏に師事していた松本道子氏がモダンダンスの「松本道子創作舞踊教室」を開設した。

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